2014年05月26日

水林章 『公衆の誕生 文学の出現』



言論を書いた本は大きくわかれて2つあります。

1つは、現代社会にある問題点を読み手に提示してその問題点について行動を促す本。

もう1つは、ただ書き手の知的好奇心の赴くまま論を書き進めているだけで、読み手には何の意味もなく、知的な時間消費をさせるだけの本。

この本は、間違いなく後者でしょう。

学生時代にフランスに赴き、そこでフランス文学を学んだ作者が、フランスが生んだ世界的な言論者であるルソーの知的な変遷を、ルソーの書物を研究して述べたものです。


rusou.JPG

私は、学問とは何か?何のためにあるのか?

という幼いころからの疑問を明らかにすべく、文系の大学に進学してからは、登録した講義はすべて出席して、本も週1冊くらいのペースで読みました。

そこで得た教訓は、学問は良き社会へ導くためにある。

ということがわかりました。

そのためには、多くの人が学問に接し、そこで問題点をあぶり出し、その問題点をよき方向へ導くためには何をしていかなければ良いかを考えて行動しなければいけない、ということがわかりました。

しかし、そういった学問とは別に、知的好奇心の赴くまま、本や事象を調べ、読み手に行動を促す(当為=sollenゾレン)こともなく、ただ論を展開しているだけの本も多くあることも事実です。

前者のような、読み手に当為を促すモノであるならば、話題にされることも、センセーションを浴びることも多いことでしょう。

しかし、後者のようなモノはそういったことは稀であることに違いはないですが、読み手を知的遊戯の世界に引き込み、人間の創り出した世界観に誘い、別世界に心を運び、心を憩いの空間に運んで行ってくれることがままあるのは間違いないです。
ハートたち(複数ハート)
この本は、そんな本であると思っていただいて間違いはありません。

私は、著者の言っていることが黒か白かよくわからないモノが多い文学的な作品よりも、整然と言いたいことを言ってくれる学問的なモノにぞっこんになり、いろいろと社会科学的な本にのめりこんでしまったクチですが、だからといってこういった読み手に何の当為も提示することなく、ただ知的好奇心の赴くまま遊戯をしているだけのモノも好きなことに違いはありません。


こういったsollenはないけれども、癒しの時空間に誘ってくれる書物は,みすず書房には多くあります。

ドイツ語やフランス語には、英語とちがって冠詞(aやtheにあたるもの)が「〜から」「〜へ」「〜の」「〜に」という格によって変化します。

ドイツ語では、格が4つありますが、フランス語では8つあります。

私は大学時代にドイツ語を履修しましたが、格が4つだけだったので、フランス語はもっとあることを知って、「ドイツ語でよかったー」と思うと当時に、英語が如何に簡単かを思い知らされました。

こんなめんどくさいドイツ語なんて1年だけ履修すればいいやと思い2年目以降はしませんでした。

こういったドイツ語やフランス語のように格がいくつもある言語を日常的に使用している国民であれば、それは物事を日々深く考えることも多いでしょう。

ドイツやフランスに哲学者と言われる人が多いのもそんなところにも理由があるのでしょう。

そういった何気ない言葉の端々について深く観察しているのがこの本であると思ってもらえればいいと思います。

ルソーの書物を勉強し、そのルソーの言った言葉について深く省察しているのです。

研究者で多いのが、「」を使って昔の大家の言葉を引用し、それに他愛もないコメントを加えるだけということをしている人も多いですが、そういった本は非常につまらないモノですが、この本に関してはそうではありません。

言葉のホントに小さな部分から、著者の考えを深く広く展開していますからついつい読み進めてしまいます。

リゾート

こういった深く広い省察が、私たちが生きていくうえで果たして必要か?と問われれば、そういった場面はほとんどないでしょう、というのが私の感想です。

ではなんでそんなことをこの著者はしているのかと言われれば、好奇心の赴くまま知的な遊戯をしているのでしょう、としか考えれません。

ルソーを生んだフランスは厳然と階級の存在する社会です。

francais.JPG

その上流階級において、こういった知的な遊戯はなされてきたのでしょう。

一方、下流階級ではそういったことは無縁でした。

知名人の書いた本の端々について深く省察考察を加え、同じ階級内でサロンで語り合い知的な時間を過ごす。


saron.JPG

そんな風景がこの本をよんで浮かび上がってきました。

とりわけ珈琲を飲みながらこの本を読めたら最高だと思います。

co-si-.GIF

しかし、そういった知的遊戯が日常生活では必ずしも重要かと言われればそんなことはないだろうと思います。

全世界で18億3500億ドルの興行収入を出したという97年の映画『タイタニック』は、上流階級のローズと労働階級のジャックの2人のストーリーですが、その上流階級で交わされる退屈な会話に辟易していたローズの思いがあけ広げられていたのを思い出します。

titan.jpg

そんなローズが、労働階級のジャックの自由奔放さにあこがれるのも自然とはいえ、必ずしも誰もがそうなるとは限りません。

taitanic.jpg

やはり、人間というのは生まれ育った環境に一番感化されやすいもので、上流階級で交わされる知的な遊戯が必ずしもローズのように退屈に感じられるかどうかは本人次第としか言いようがありません。

しかし、物事を深く考察していくことについては必ずしも不必要なモノとも思いません。

こんにちのように、情報が次から次に出てくる状態においては、マスコミによる大衆の状操作の餌食になりやすいでしょう。

そうならないようにするためには、物事を日ごろから深く考察洞察していくことが必要です。

真実を暴くためには。

かつて日本が生み出した偉人の1人である梅棹忠夫氏は、自分の知的活動のスタンスを、知的好奇心の赴くままいろんな情報や知識を集めて整理して物事の共通点や底通するものを分析するだけで良し、としていました。るんるん

本人は、必ずしもsollenを学問において出すべきではない、ということを書いておられました。

そのことには私はいまだどっちつかずの状態です。

学問、科学であるからには、意味を見出して読み手がすべきことを出すことが教授や知識人の役目だというスタンスも、好奇心の赴くまま情報や知識を集めて分析するだけでいいというスタンスも両方支持します。

この著書は後者の立場に立って書かれたものです。

前者の立場の本のように直接的に当為sollenが明確なモノにくらべ、緊張感が薄れるという面があるのも事実ですが、でも深い考察力のある著者のモノですので、その世界観についつい惹きこまれてしまいます。
リゾート

こういった書物を書くには資質が必要でしょう。

書くにあたり、選ぶ語、説明の仕方、説明に使う語彙、こういったことにセンスがないと、読み手は面白さが感じれなくなってしまい、本を閉じてしまいます。
ふらふら

そうならないためには、センスがないとダメですね!

そういったセンスはこの著者である水林章さんは充分にあると思います。

こういった知的遊戯をしている本を書いている人も多くいますが、中には資質がないゆえに、世界観に読み手を惹きこむことができない人もいます。

自分の得た情報等を頭の中で発酵させることもなく、考えることもなく、ただわからないまま引用しているだけだったり、他愛もないコメントしかしていない本だったりします。

この本の著者の水林章さんには知的遊戯に惹きこむセンスが大いにある人だと思いました。

そんな知的遊戯に誘われたい方はこの本をどうぞ!
  ↓


公衆の誕生、文学の出現―ルソー的経験と現代

その他、私が勧める知的遊戯本は以下です!
  ↓
都市の憂鬱―感情の社会学のために

マルクス主義科学論


posted by ロックさん at 01:53| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする